酒井、フォトコン応募やめるってよ。
2016年チャレンジしたかったことの一つに「フォトコンテスト」への応募があります。
理由は自分の写真の評価を知りたかったこと、あともしかしたら賞金がもらえて機材購入の足しになるかも。という応募動機としてはありふれたものでした。
でも、やめました。
結局ひとつのフォトコンテストにしか応募せずに。
フォトコンテストというものに信頼を持てなくなったからです。
『オホーツクの四季』写真コンテスト問題
2016年3月15日、北海道立オホーツク流氷科学センター主催の写真コンテストで、最優秀賞を受けた「征服」というタイトルの写真がTwitterを中心に「炎上」しました。
写真は打ち上げられたクジラの死骸の上に青年が立ちガッツポーズをする。というものでしたが、これに「自然への冒とく」、「四季を感じられない」という多くの批判があがったのです。
※写真はすでに「受賞者辞退」によりWeb上から削除されていたのでここでは載せません。
以下、Twitterでの声をご紹介します。
「オホーツクの自然」とか「オホーツクの海」とか「オホーツクの生物」とかならまだ分かるかもしれないけど……
少なくとも「四季」はいまいち感じられないわ
まあ、それでも俺は好きじゃないけど
— 通りすがりの写真垢 (@sui_Camera1017) 2016年3月15日
オホーツクの四季の写真コンテストの件、鯨の亡骸を被写体とする事は否定出来ない。
自然の摂理としてそこに在るものだし、無常や儚さを見る事もできる。ただそれが「四季」を表しているとは思えないし、その上に乗るなど生命への冒涜でしかない。
もっと万人が共感出来る作品が有ったろうに…— mk_about (@mk_about) 2016年3月15日
などなど。正直なところ、私もこの写真は嫌いです。少なくとも見ていて気持ちのいいものではありません。
ですが、この嫌いな写真が選ばれたことでフォトコンテストをやめる。というわけではありません。
自分ならどう表現するか
仮に自分が同じ撮影者の立場であればどう撮影するか考えてみます。
北海道の浜辺をカメラ持って散歩していたら打ち上げられたクジラの死骸に遭遇。というシチュエーション。
私は、まず自然の残酷さとか生物の無力さとか儚さとか、逆にその死が与える恩恵とか、そういうのが感じられる写真を撮りたいと思うでしょう。
例えば広角レンズを使って、「大きい生物」であるはずのクジラが、広大な海の前ではちっぽけな存在である。というスケール感を出そうとするでしょう。
クジラと海に正対し、背景に水平線を持ってきて「海の中で朽ち果てられなかった無念さ」を表現するかもしれません。
残酷さを強調するためにホワイトバランスは少し高め&露出は抑えたローキーな写真。
死肉をつつく鳥なんていれば死してなお自然に恩恵を与える。という表現も可能です。
という作品づくりをしたいと考えるはずです。
少なくとも死骸の上にとってガッツポーズをとる人間を撮ろうとは思わないでしょう。
結局は審査員とセンスが合っているかどうか
しかし、今回この写真が最優秀賞に選ばれたことである疑念が浮かびました。
結局のところ審査員の好む写真が選ばれる(傾向がありそう)ということです。
もちろん、写真には構図・露出・ピントなど、基本的な技術があります。
しかし特に露出や構図などは「定石」はあれど最終的には個人のセンスの問題。
ある程度のレベル以上の写真では最終的には審査員とウマが合うかどうかがポイントになっているでしょう。
現に、今回の「オホーツクの四季」写真コンテストで審査員を務めた女性審査委員の方は朝日新聞の取材に対し
女性は「選評」の中で、「海岸に流れてきた?クジラに乗ってヤッタゼ!と言った得意のポーズの青年!滅多に見られない作品作りに成功されたと言ってよいでしょう」とした。
女性は朝日新聞の取材に「クジラは生きていると思った。その上に乗っかるなんて勇気があると思ったし、感動したので選んだ。それが冒瀆と言われると何と言っていいかわからない」と話している。
とコメントしています。ポイントとしては「生きているクジラに乗っかるのは勇気があり、感動した」という点です。前述の私が表現したい自然の残酷さ・命の儚さとは対照的に、人間の強さ・勇気。をこの女性審査員の方は評価したのでしょう。
私はこの写真に、強さや勇気は一切感じられませんでした。
つまり、この女性審査員の方と私は感じるものが違うのです。
違うものを感じる人に自分の意図とした思いを写真で伝えるのは無理でしょう。
前述した自然の残酷さを伝える写真も「広い海に小さく配置したクジラでは、クジラの強さが伝わらない。」とか、「露出不足」とか、そういう評価を下されるかもしれません。
やってはいけないことをしたコンテスト運営
この写真がTwitterで炎上した結果、朝日新聞の記事によると
「生命に対する侮辱だ」などと批判が相次ぎ、同センターは受賞の取り消しも含め対応を検討している。
と、運営側で受賞の取り消しを含め検討していると判明しました。
私はこれは決してやってはいけないこと。だと思っています。
少なくともこの審査委員の女性は感じ方はどうであれ、この写真に感動し撮影技術的にも評価して最優秀賞を与えたはずです。
それが、ネットで炎上したからと取り消しを検討するなど言語道断。
世論で評価を変えるなんていうのは決して許されません。
体操選手やフィギュアスケートの競技点や世論で覆るでしょうか?絶対にありません。
また、今回は「受賞者の辞退」となっていますが同センター所長の出したお知らせ文が発行されています。
寄せられた意見を受け、審査員と応募者に事情を説明しましたところ、ご本人様より辞退する旨のお話しがあり、最優秀賞(北海道知事賞)は「該当作品なし」と致しました。
ポイントはセンターが、応募者に炎上しているという事情を伝え応募者が辞退した。というところです。
応募者が辞退するのはよくある話だと思いますが、この文を読むにセンターが応募者に辞退を促した。と捉えても自然でしょう。
炎上を受け応募者が辞退を自ら申し出たのではないのです。
絶望した!こんな写真コンテストに絶望した!
私は、こんな審査員とウマが合うか合わないかの運ゲーで世論で受賞取り消しになるような写真コンテストに貴重な時間を割いて作品を作り、応募したくはありません。
もちろん全ての写真コンテストがそうとは言えません。今回は応募総数100点ほどの小さなコンテストでした。
しかし、ではどの写真コンテストならばいいのか。という答えも見つかりません。
そういうわけで、写真コンテストへ応募することをやめたのでした。
あ、もちろんコンテストの応募をやめなさい。とか応募者への批判とかではないです。応募するしないは個人の自由。でもこういうフォトコンテストがあって、こう考える人間がいる。というのを知ってほしいのです。
私はこのニュースから「フランダースの犬」を思い出しました。
ネロの絵はある一人の審査員は素晴らしいと言っているのに、他の審査員が他の絵のほうがいいと言って、結局ネロの絵は一等賞を取れない。
ネロは自分の絵が賞を取れなかったことに絶望するわけですが、そんなもん、気にするな!と・・・ツタヤで借りたDVDを見ながら、ネロに向かって叫ぶ私です。
私も何回かフォトコンに出したことがあり、もちろん全敗なわけですが、無事「写真家」という肩書だけはいただける立場になれました。
ある意味、フォトコンって、「一発屋探し」だと思います。
他にどんな作品を撮っているのかを総合的に見ての判断ではなく、たった一枚だけを見て、その人の才能を評価する。それで本当の才能を見つけるのは困難であるし、またそうやって人の才能を上から目線で「俺が発掘してやるぜ」といった態度で見る審査員にも好感が持てません。
同じことを文学賞にも思います。
長々とコメントを残しましたが、私は今回の事件からそう思いました。
う〜ん。本当に小さな観光写真コンテストでしょ。
この程度のコンテストでフォトコン全体が悪く言われるのは心外ですね。
審査員の好み云々と言うのなら、雑誌の月例コンテストなんて、どうなんですか?大体一年で審査員総入れ替え、雑誌によっては3ヶ月周期で交代する部門もあります。
それでも、実力のある人は何年も入選を続けています。
フォトコンに対する風評で一番嫌なのは、
「入選した事の無い人(もしくは入選率の低い人)」「まだチャレンジして無い人」が「フォトコンチャレンジなんて意味のない事だよ」って吹聴する事です。
そうですね。勘違いしてほしくないのですがフォトコンチャレンジが無意味とは思っていませんよ。実際にフォトコンへの入賞を機にフォトグラファーとして羽ばたいている方も多いですし、フォトコンへの入選を目指してスキルを磨く人も数多くいるでしょう。
ただ本投稿にもある通り本件は小さいフォトコンテストですがそれが大きなフォトコンで起らない保証はどこにもありません。それなら私には合わない。それに時間と労力を割き応募することで写真の権利やらを(悪い言葉を使うと)奪われるのならばもっと別な事に使おう。と考えただけです。
また投稿の最後にもある通りコンテストに応募すること自体を批判する投稿ではないのでその部分はご理解いただければ幸いです。
そういえば以前自ら命を絶たれた女性の生前の写真がフォトコンテストで選ばれて、その後その女性が亡くなられていたことを理由にひと悶着あったフォトコンテストもあったかと記憶してます。多かれ少なかれ人間が審査する以上、関わる人・企業・団体が増えるほどそういう部分は無くはないのではないかと思ってしまいます。